新型コロナ以降世の中の状況は変わり、テレワークの普及が進むとともに関係各所のデジタル化対応の動き出てきておりますが、その上で弊害となっているのがハンコです。
コロナ禍においては私も会社に印を押すためだけに何度も出社しました。
すごく無駄な時間だなと思いつつ、印は重要だと思っているので仕方がないことなのかなと言い聞かせて生活していました。
ただ、ここにきてハンコ無しでもOKなことは実は多いことがわかり、押印不要だったり別のもので代替できるようになってきています。
ハンコ社会から脱ハンコ社会へと動きだしています。
ハンコを作っている人や売っている人にとってはマイナスの出来事かもしれませんが、個人的には助かっています。
さて、前置きが長くなりましたが、今回はそんなハンコについて、そういえばいつからこういう印を押す風習があるんだろうと、ふと疑問に思ったのでその成り立ちや歴史について調査してみました。
ハンコについて興味がある方は是非ご覧ください。
日本におけるハンコと印鑑の違いと定義
まず初めに日本におけるハンコという言葉の意味について認識のすり合わせを行っておきたいと思います。
現代において生活の中で「ハンコ捺(お)しておいて」とか「印鑑捺しておいて」といった形で「ハンコ」と「印鑑」は同一の言葉として語られることがしばしばですが、実はこの2つは本来別の意味合いを持っています。
印鑑は元々はハンコを照合するための見本として予め行政機関や銀行等に届け出る「印影」を指す言葉でした。
そのため、ここからは「印鑑」という言葉はこの「印影」を指す言葉であるとご認識頂くとともに、ハンコについては基本的には「ハンコ」または「印章」と記載させていただきますのでご認識ください。
ハンコの起源をたどる
ハンコはそもそもどこの国発祥なのでしょうか?
歴史の授業などでも習ったかもしれませんが、紀元前5000年~3000年頃の古代メソポタミアであると言われています。
最初のハンコは粘土に捺すスタンプ型印章だったと言われています。
粘土の他には溶けた蝋の上に捺すタイプの印章もありました。
その後、シュメール人が発明したと言われている円形印章が登場します。
外面に図柄や楔形文字が刻まれているため、粘土の上に転がすことで半が捺せる仕組みというわけです。
この古代メソポタミアで生まれた印章はその後エジプトなどに伝わっていきます。
エジプトはとても乾燥した土地だったことから、粘土の上で転がすといった印章は難しく、エジプトに合った形に改良されていきます。
その他のギリシャ、ローマなどのヨーロッパ各地に広まっていきます。
一方で、東側もシルクロードを辿るような順番で伝わっていったとされており、トルコやインド、モンゴル、中国といった形で伝わっていきました。
なお、中国では紀元前1600年~1100年頃(殷代)のものとされる印章が発見されており、このことから印章はこのころからポピュラーなものとなっていたという風に考える方もいらっしゃいます。
ハンコの歴史は非常に古く、長い時を経て醸成されていったことがよくわかります。
日本でのハンコの歴史はどうなのか?
ハンコの起源はなんとなくわかっていただけたかと思いますが、日本にはいつ頃伝わったのでしょうか?
日本史の教科書にも載っていたと思いましたが、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた「金印」が始まりと言われていますね。
時代で行くと建武中元二年(57年)、弥生時代ですね。
後漢の光武帝から受けたと言われている金印で、国宝にも指定されている有名なやつです。
また、その200年程後にも「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に「女王・卑弥呼に親魏倭王の金印を贈った」という記述が見て取れることから、この時代にはハンコ自体はあったこととなります。最も、卑弥呼に送ったとされる金印は今だ見つかっていませんが。それに、これらの印章が使われたという事実も残っていないので、文化としてのハンコがあったのかどうかはわかっていません。
あくまで想像ですが、この金印は単に中国の皇帝から認められた証といった形のモノだったのではないかと思われます。
日本でハンコが使われるようになったと思われるのは701年大宝律令の頃
諸説ありますが、一般的には大宝律令で鋳造された「官印」が日本でハンコが使われる(一般化)ようになったきっかけとされています。
この時代は印章には大きな力があったとされ、印章そのものに大きな敬意が払われていたようです。
各諸国では役所の中に「印鑰社(いんやくしゃ)」と呼ばれる政府から交付された印章を倉庫の鍵と一緒に保管するところを設置するほどであったとされていますので、印章がいかに大きなものだったのかがわかります。
なお、上記のような印章は個人のものは認められておらず、個人は直筆のサインを用いるか、「画指(かくし)」と呼ばれる指の長さと関節の位置を画く方法がとられたと言われています。
この画指は文字が書けない人のためにとられた方法のようです。
平安時代初期まではこの画指が使われ、徐々に拇印や爪印が使われていくようになりました。
個人でハンコ・印章が使われるのは奈良時代の後半以降から
平安時代が終わり、奈良時代の後半になると個人の印も登場してくるようになります。
一般庶民は先ほど記載した拇印・爪印が用いられますが、私文書を盛んに出す武士や公家は花押(かおう)と呼ばれる「花のようにきれいに書かれた署名」が利用されるようになります。
そして鎌倉時代にうつり、交易が盛んになると落款印などが中国等から伝わり、広がっていきます。
ハンコの全盛時代は戦国時代
織田信長の「天下布武」の印や北条氏の「虎の印判」は有名でしょう。
戦国時代になるとハンコがよく使われる時代となり、ハンコの全盛期といっても過言ではないのではないかと思います。
印判状(いんばんじょう)と呼ばれる印章を押捺(おうなつ)した公文書が使われるようになったことから、戦国武将たちは個人印を使うようになっていきました。
単に自分の名前が書かれたものだけでなく、先ほど紹介した天下布武といった言葉などが印面に掘られたものも多くあります。
また、グローバル化が進み始めた時代でもあり、キリシタン大名として知られる大友宗麟はローマ字の印章を使っており、当時のイエズス会の記号である「IHS」と洗礼名である「Francisco」からもじったいくつかのローマ字の印章を持っていたと言われています。
大河ドラマにもなりましたが、黒田官兵衛の名で知られる黒田孝高(如水)も洗礼名である「Simeon Josui」と入ったローマ字の印を使っていました。
この他にも様々な印が登場し発展した時代で各武将・大名ごとにいろいろあるので、もし好きな武将がいれば調べてみても面白いかもしれません。
例えば上杉謙信は信心深い人物とよく伝えられますが、それがわかる通り、印章に「獅子」を用いてその下に「地帝妙」の文字が刻まれ、それぞれ「地蔵菩薩」「帝釈天」「妙見菩薩」を表す印章を用いており、これら以外にも神仏に由来する印章が多くあり印象的となっています。
江戸時代のハンコ制度は現代に繋がる部分も多い
戦国時代が終わり、世の中が徐々にルール化されていく時代です。
戦国時代は自分の権威などを示すために大きくて迫力ありそうなものが多かったのですが、江戸時代になると商業が主流になっていくので、こうした商業や行政の制度をしっかりしていくとともに、ビジネス的な取引やお金を借入する際の証文などにおいて一般庶民にとっても押印が必要な時代になっていきます。
このころの印章は現代と同じように、役所的なところに事前に届け出をする必要があり、例えば農民であれば名主(なぬし)に、町人なら町名主に、、、、といった形で届出をするルールとなっていました。
こうしたものはしっかり照合できるように印鑑帳が作られたと言われており、現代と同じように変更があれば速やかに届出をする必要がありました。
これは一般市民だけじゃなく大名でも同じであり、こうした身分の高いものたちは幕府に印鑑を届け出ていました。
そして、この届出は現在の「印鑑証明制度」に繋がっています。
現代との違いで行くと、今は一人ひとりに印章が作れますが、江戸時代のいては1世帯に1つの印章です。
ハンコを偽造すれば死罪もあった
現代でもハンコの偽造を含めた偽造問題は多いのですが、江戸時代にも偽造は多かったようです。
こうした犯罪を「謀判」というらしいのですが、ハンコの偽造や無断使用などによる罪は非常に重いとされており、流罪や死罪が適用されており、それだけハンコが持つ意味が大きくなっていったことを表していると言えます。
現代のハンコはどのようになっていくのか?
江戸時代が終わり、明治時代になってくると法律等も制定され印章を重要視する「ハンコ社会」が確立していきます。
現代のハンコ利用については解説不要かと思いますが、こうした流れでハンコが定着していきました。
そして、現代ではハンコは無くした方が良いという脱ハンコ社会へと少しずつ動きだしています。
ただ、歴史を見ればわかる通り、このハンコは非常に重きものとして扱われてきており、文化として完全になくなることもないのではないかと思っています。
趣味でハンコを作る人も最近では増えているようなので、何かしらの形でハンコは残ると言えるでしょう。
今後のハンコの行く末をしっかり見ていきたいと思います。