明智光秀はどのような人物だったのか?最後はどうなった?簡単にわかりやすく解説!

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明智光秀 人物・武将

明智光秀といえば2020年の大河ドラマの主人公になるなど、近年注目を集めている偉人の一人でしょう。
明智光秀の前半生についてはよくわかっていません。室町幕府第十四代将軍・

足利義昭のもとではたらいていたということは有力な話として言われている程度です。
その後の明智光秀は織田信長の家臣となります。比叡山延暦寺の焼き討ちや丹波の波多野家攻略などで功績をあげ、織田家のなかでの存在感を放ちます。

しかしその後、突如として信長に謀反を起こし「本能寺の変」で嫡男の信忠と一緒に討ち取ってしまうのです。
その後、天下の中心となって動いた光秀でしたが、秀吉の「中国大返し」によって本能寺の変からわずか11日後に敗北してしまいます。

そんな光秀の一生を見ていきましょう。

明智光秀ってどんな人?家系は?

明智光秀の家系は室町幕府に仕えた家系だったといわれています。

ドラマなどでは美濃の明智氏に連なる一門のような描写をなされることもありますが、これは苗字が同じであることから生まれた創作でしょう。

生年についてもはっきりせず、1528年説や1516年説があります。いずれにせよ、信長より年上であったことは間違いなさそうです。

本圀寺の変と光秀と信長

光秀ははじめ織田信長ではなく足利義昭のもとで幕臣としてはたらいていました。
有名な事件として永禄12(1569)年に起きた本圀寺の変があげられます。

この事件は本圀寺に宿泊していた足利義昭を三好三人衆が襲撃したという事件です。このとき光秀は本圀寺におり、将軍方で戦っており『信長公記』ではここで光秀の名前が初登場しています。このときは季節が冬ということもあり、三好側には凍死者がでたようです。

信長はあわてて援軍を出しましたが、到着したときにはすでに三好三人衆の軍は退いたあとでした。信長はこのことに大いに喜び、光秀にも恩賞を与えています。

その後、光秀は京都周辺の奉行職や文書発給に携わるようになりました。しかしこのときの光秀はまだ織田家臣ではなく、室町幕府の家臣という立場です。

また信長が上洛後、朝倉討伐にのりだしたときにも従軍しています。
ここで浅井家が裏切り、撤退を余儀なくされたときには秀吉とともに殿をつとめています。有名な『金ヶ崎の退き口』には光秀もかかわっていたのです。

また光秀は比叡山延暦寺の焼き討ちでも中心的な役割を果たしました。この戦いで武功をあげた光秀は近江滋賀郡に5万石の領地を信長から与えられます。そして間もなく坂本城の築城に取り掛かるのです。

信長の家臣として活躍

光秀が本格的に信長の家臣となるのは元亀4(1573)年2月のことです。この時期に義昭は信長を見限り反旗を翻します。光秀はこの動きには賛同せず、反対に信長軍に従軍するのです。これにより光秀は名実ともに織田家臣としての地位を明らかにします。

天正3(1575)年、光秀は従五位日向守に任命されると同時に惟任の苗字を賜ります。これは同じ日に原田の苗字を得た塙直政、惟住の苗字を得た丹羽長秀と同格の立場ということができます。これによって光秀は本格的に織田家の重臣層に加わっていくことになったのです。

光秀はその後、武田勝頼との長篠の戦いや越前一向一揆といった戦いに従軍します。そして信長から丹波攻略を任されるようになるのです。

丹波攻略

丹波国は山続きの土地で統治が非常に難しい場所でした。そのため国人が割拠しており、丹波国内でも信長に協力的な国人もいれば、敵対的な国人もいました。この丹波攻略は光秀の人生における一大プロジェクトといえるでしょう。光秀は本願寺攻略や荒木村重の謀反に対する有岡城攻略など、さまざまな戦いに従軍しながらこのプロジェクトをすすめていきます。

天正3(1575)年にはじまった丹波攻略が終わりをみせたのは天正7(1579)年のことでした。1月には波多野軍の攻撃により親信長派の最右翼であった小畠永明が討ち死にします。これによって丹波国攻略が遠のくかと思われましたが、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城します。さらに8月には黒井城も落城させ、とうとう丹波国を平定するのです。

光秀はこの功績を信長から評価され、丹波国34万石の領地を任されます。

またこのときに筒井順慶などの近畿地方の有力者が寄騎として配置され、その分を含めると光秀は約240万石もの領地を任されたことになります。
これほどの領地を任されることからも信長の光秀に対する信頼の厚さがうかがえると思います。

武田征伐に従軍後、信長の光秀に対するあたりが酷くなる

光秀は天正10(1582)年の武田征伐に従軍します。
この戦は武田家に裏切りが相次いだこともあり、あっけなく終わりますが、ここで有名なエピソードがあるのです。

武田家に勝利したことを祝う宴会の席でのことです。光秀が何気なく「我らの苦労も報われましたな」と口にした言葉が信長の耳に届きました。信長は光秀に「お主がこの戦でいつ苦労をしたのか」と怒り、足蹴にしたのです。この事件は信長の光秀に対するパワハラ体質を象徴する事件として有名です。

また家康が安土城に訪れた際には饗応役を任されましたが、そこでも料理に難癖をつけられて叱責されるといったエピソードものこっています。
また外交を担当していた長曾我部家と織田家の関係が悪化したことにより、自身の立場が苦しくなりつつあったという話もあります。

本能寺の変

家康の饗応役を解かれた光秀は、信長から秀吉の毛利征伐の援軍に向かう途中、突如として目的地を京都の本能寺に変更します。有名な「本能寺の変」です。

光秀は本能寺で信長を討ったあと、二条御所に立て籠もった嫡男の信忠を討ち取ります。この後光秀は近畿の有力者たちに協力を求め、朝廷との交渉に動きます。しかしこれらの行動は思った以上に難航するのです。

光秀は山﨑の戦いに敗れ、最後は農民に竹やりで刺されて死ぬ

そして本能寺の変からわずか11日後、秀吉軍が「中国大返し」で近畿に姿を現します。これは光秀にとって、あまりに大きな誤算だったでしょう。山崎の戦いに敗れた光秀は逃亡中に、農民による落ち武者狩りにあったと伝わっています。その首も届けられ、死亡が確認されたとしていますが、一説では生き延びてのちに南光坊天海という層を名乗ったという異説もあります。「本能寺の変」をめぐるこうしたエピソードは今後も尽きることはないでしょう。

以上が光秀の生涯となります。

なお、本能寺の変については諸説あり、光秀の動機や行動については考察の余地があるため、以下の記事もご参考ください。

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