室町幕府最後の将軍として知られる足利義昭について簡単にわかりやすく説明いたします。
- 出身地:山城(現在の京都)
- 生年月日:1537年11月3日
- 死亡日:1597年8月28日(享年61歳)
- 死因:病死
- 信長に追放された室町幕府最後の将軍(15代将軍)
室町幕府最後の将軍足利義昭
足利義昭は、室町幕府12代将軍の足利義晴の次男です。
長男である足利義輝が13代将軍ですが、その兄義輝が家臣に殺された(三好三人衆に自害に追い込まれた)際に、当時興福寺の僧だった義昭自身も邪魔な存在だったため、幽閉されますが、同年7月に助け出されます。
助け出された義昭は、僧には戻らず、若狭武田氏のもとへ行きますが若狭武田氏が滅亡したため、越前(現在の福井県)の朝倉義景のもとへ行き、自身が将軍となり再び室町幕府の権力を取り戻すべく動きます。
しかしながら朝倉義景は義昭の上洛要求に対して動こうとしなかったことから、今度は織田信長を頼ることとなります。
元々義昭は織田信長と後は上杉謙信を頼りにしており、両名とも足利義輝が将軍だった時代に上洛して謁見していたことから、双方の信頼を得るために活動をしていました。
現実的に京都に近い尾張を拠点としていた織田信長には期待していたものと思われます。一方で上杉謙信は当時武田信玄と争っていたためそれどころではありませんでした。
信長自身もすぐには動けませんでしたが、美濃を平定すると信長は義昭を連れて京へ入ります。そして義昭を15代将軍とします。
ただ、実験は信長が握っていたため、義昭は信長に対して大きな不満を抱くようになります。
信長との対立も増えてきたことから義昭は信長を倒すことを決意し、武田信玄や浅井長政、朝倉義景らと協力して信長包囲網も形成し、信長を追い込んでいきます。
しかし、信長の勢いは強く、また、武田信玄の病死など信長にとっては好機とも言える出来事が続いたことから妥当信長は果たせず、信長により京を追放されます。
その後、義昭は各地を彷徨い、最終的には毛利家を頼りますが、毛利家は劣勢となります。
ただ、本能寺の変が起こったことにより、信長の時代は終わり、豊臣秀吉の時代がやってきます。
秀吉は足利義昭を特に弾圧することもありませんでしたが、義昭は将軍職を辞し1万石の領地を認められた大名として余生を過ごします。
ただ、1万石とはいえ前将軍ということでVIP待遇であり、余生は安定した生活を送ったようです。