浅井長政ってどんな人?わかりやすく解説!娘たちである浅井三姉妹とお市の方も紹介!

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浅井長政とお市の方 人物・武将

浅井長政とはどんな人物なのでしょうか? 戦国時代に興味のある人なら多くの人が聞いたことがある名前だと思います。
浅井長政は北近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井家の嫡男として生まれ、一五歳で家督を継ぎました。
信長の妹・お市の方と結婚し、信長と一時は同盟関係を結びますが、朝倉家との関係をめぐって対立。その後、織田家に攻め込まれ二十九歳という若さで自害します。
ここではそんな浅井長政の壮絶な人生を詳しく紹介します。

浅井長政ってどんな人物?

浅井長政
浅井長政は天文一四年(1545年)に浅井久正の嫡男として生まれました。
元服は一五歳のときで、そのときは「新九郎賢政」と名乗ったそうです。これは当時、近江(現在の滋賀県)の南に勢力をもっていた六角家の当主、六角義賢から名前を一字もらってのことです。
また、あまり知られていませんが、信長の妹であるお市の方と結婚する前に、六角家の重臣・平井定武の娘と結婚しています。
しかし父・久政と国人たちの対六角政策の対立のなかで元服後、すぐに離別させられます。

長政が浅井家の家督を久政から継いだのは永禄三(1560)年の十月ごろのことです。このころはまだ賢政を名乗っていて、長政を名乗ったのは永禄四年五月のことです。この「長」の一文字は信長との連携が関係していると考えられています。

浅井長政と織田信長の同盟

信長と長政の同盟といえば長政とお市の方との結婚が真っ先に思い浮かぶ方も多いと思います。この同盟の時期は諸説あって、永禄二年から十一年(1559年から1568年)まで諸説あります。

信長の妹お市の方と結婚。美男美女の夫婦

ちなみに長政は背が高くスラっとしたイケメンだったという話があって、絶世の美女と言われたお市の方と美男美女の夫婦だったという話は有名です。娘の茶々や孫にあたる豊臣秀頼も背が高かったという話がありますし、もしかしたら織田家だけではなく、浅井家も美男美女の家系だったのかもしれませんね。ともかくこのお市の方との結婚により、浅井家と織田家の同盟は強固なものとなりました。
なお、お市の方は、淀殿、初、江の三姉妹を生み、家族は仲良く暮らしたと言われています。

浅井家と六角家との関係

一方でこれまでの同盟相手であった六角家とは対立関係となります。織田家との同盟があったとされる時期には六角家と攻めたり攻め込まれたりの戦を繰り返しています。この戦いは六角家内部の問題(いわゆる観音寺騒動)により、六角家が衰退していったことで浅井家の有利な方向へと進んでいきます。

信長・足利義昭の上洛を手伝う

そんななかで信長による足利義昭の上洛を目指した戦いがはじまりました。この戦いに長政は協力的で、足利義昭が越前の朝倉家から織田家に移る際には、道中となる小谷城で義昭と信長をもてなしています。

信長はあっという間に六角家を破り、上洛を果たします。

ちなみにこの上洛戦にはちょっとした創作話があります。『総見記』という史料では信長が上洛するために浅井家の城である佐和山城に逗留したときに浅井家臣・遠藤喜衛門が「信長は裏表の激しい人物で信用ならないからここで暗殺してしまいましょう」と長政にもちかけたとされています。長政は「同盟相手で、しかも将軍を上洛させようとする義兄を討つなど正義にかける」としてこの意見を退けていますが、この創作は信長の強運、長政の正義心、そして遠藤の忠誠心を示す逸話となっているのです。でも実際にこんな話が記録に残っていたら大変だと思いますけどね(笑)。

少なくとも長政と信長の関係は信長が上洛したあたりまでは問題なかったと思われます。そんな両者の関係に亀裂が走ったのは元号が元亀に変わったころでした。

織田信長が朝倉家の領地へ出陣。浅井・織田の同盟はどうなる?なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか?

元亀元(1570)年四月、信長は若狭の武藤氏を討伐するという名目のもと、朝倉家の領地・越前へ向けて出陣します。多くの人が知っている話では、信長は浅井家と同盟するときに「浅井家の長年の同盟相手である朝倉家には攻め込まない」という約束をしており、それを破ったことに怒った父・久政や家臣に押される形で長政は信長との敵対を決意し、その背後を攻撃するという流れだと思います。

しかし、近年ではそもそも浅井家と朝倉家には同盟関係がなかったことが指摘されていて、同盟どころか朝倉家が浅井家に攻め込んだことすらあるのです。

ではなぜ長政は信長を裏切ったのでしょうか?それは浅井家と織田家の関係性の変化にあるといわれています。

同盟当初、浅井家と織田家の力関係は比較的対等でした。しかし織田家が勢力を拡大していくなかで信長は浅井家のことを自分の家来だと思うようになります。

確かに同盟当初と比べれば、浅井家と織田家の力関係は織田家にかたむいたと言えるでしょう。
しかし信長の「家来」という認識は少し傲慢な気がします。長政や家臣たちはこのまま信長についていくと自分たちは本当に信長の家来になるしかないのではないか、と危機感を覚えて裏切ったのかもしれません。

姉川の戦い

この裏切りからわずか二か月後の六月、信長は浅井家へと二万五千の軍勢で攻め込みました。

姉川の戦いです。
このとき浅井の軍勢は五千、朝倉の援軍が八千ほどであったといわれています。この戦いでは徳川の援軍もあって、織田家の勝利に終わります。このとき、姉川は死者の血で赤く染まったという話がのこるほど大規模な戦でした。その数は数千人にものぼったという記録ものこっています。

姉川の戦いに敗れた長政でしたが、浅井家は力を完全に失ったわけではありませんでした。その後も信長包囲網を周辺勢力とつくり、朝倉家だけでなく、比叡山、三好三人衆、本願寺などと連携を結んでいきます。

信長包囲網は信長を確実に苦しめており、長い戦いの期間に森可成を討ち取るといった戦果もあげています。信長の追い込まれようは相当なものだったようで、朝倉義景に決戦の申し出をするほどでした。ちなみに義景は三好三人衆と手を組み、信長を挟撃するつもりでしたので、この申し出を断っています。
しかしこの信長最大の窮地も結局は和議という形で決着し、戦は領地割譲の細かな取り決めなどをしたうえで一時停止ということになるのです。

窮地に追いやられる浅井長政

次に窮地に追い込まれたのは長政でした。
元亀二年(1571年)に佐和山城を任せていた磯野員昌が信長に降伏してしまったのです。佐和山城は浅井にとっても織田にとっても重要な拠点であり、長政は佐和山城を失った怒りから磯野の人質を殺してしまっています。

悪いことは続きます。翌年の元亀三(1572)年には信長包囲網の中心勢力であった武田家の当主・信玄が病死してしまうのです。武田家は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破っていながらも、撤退を余儀なくされました。

武田信玄の死と朝倉家滅亡により浅井家は終焉へ

武田家という大きな脅威が薄れた信長は天正元(1573)年に信長はとうとう朝倉家を滅ぼします。これまで連携をとっていた隣国の朝倉家を滅ぼされたことによって後ろ盾をうしなった長政はいよいよ覚悟を決めます。このときはすでに長政の家臣のなかにも信長へ降伏するものが増えていました。

八月には木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が信長の命令で長政の居城である小谷城へと侵攻。城の一角である京極丸を攻め落とします。信長が京極丸へ到着すると、秀吉は続けて本丸へと侵攻。小谷城はついに落城するのです。長政は敗北を悟り、妻であるお市の方と三人の娘を信長の許へと送り、自害します。

こうして長政は二十九年という短い生涯に幕を閉じることになります。

長政が亡くなったあとの浅井家は戦国大名としては滅びてしまいます。長男の万福丸も処刑されてしまったために男系が途絶えてしまったからです。

浅井長政の娘たちは長く生きる

しかしその後、長女の茶々は豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を生み育てます。次女の初は近江の名族・京極氏の許へと嫁ぎます。さらに三女の江は、二代将軍・徳川秀忠の正室となります。
浅井家は滅びてしまったわけですが、その血は確実につながれていくわけです。
とくに江の娘は天皇家へと嫁いでいますので、今の天皇家は浅井家の血をひいているということになります。

浅井長政の短く太い壮絶な人生

ここまで長政の生涯を紹介してきました。父と家臣の対立から結婚相手と離別させられ、わずか十五歳で当主となり、そこから十数年間、激動の時代を生き抜き、最後は壮絶な戦いのなかで若くして命を落としました。
しかし自身の家系は天皇家につながっていくという、当時からみればある意味、勝者ともいえる結果になりました。

以上、浅井長政の壮絶な人生でした。

長政と娘の浅井三姉妹とお市の方

終わりに、浅井家を中心とした人間関係図をまとめておきます。

浅井長政・お市の方・浅井三姉妹の関係図

先ほども記載した通り浅井家は滅びましたが浅井三姉妹が長く活躍します。

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