本能寺の変とはどんな事件か?なぜ起きてどんな影響を与えたのか?簡単にわかりやすく解説!

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本能寺の変が起きた際の跡地の写真 ミステリー

「本能寺の変」は有名な事件なので知っている方も多いかもしれませんね。
本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日に明智光秀が主君である織田信長に対して突如として謀反を起こしたとされている事件です。
そんな本能寺の変について簡単にわかりやすく解説していきます。

本能寺の変とはどのような事件なのか?

本能寺の変の際、信長は公家などの文化人と茶会を開いていたそうです。そのため自身を警護する者も、多くとも200人未満だったと言われています。

光秀は領地である近江・坂本から中国地方で毛利攻めをしていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の援軍へ13,000の軍勢を率いて向かう最中でした。
その道中、彼は突如として軍勢の行き先を変更し、本能寺へと進んだと言われています。大河ドラマなどで有名な「敵は本能寺にあり!」というセリフはこのときのものです。

当時の本能寺は現代の寺社のイメージと異なり、石垣が存在するなど城塞のような様相を呈していたと言われています。
実際、光秀が本能寺へ攻め込んだときにも本能寺はすぐには陥落せず、わずかな人数でも抵抗をみせたそうです。

しかしさすがに10,000を超える軍勢に百人程度の人数では攻撃を防ぎきることはできなかったようです。

この謀反によって本能寺に宿泊していた織田信長は討ち死にし、さらに妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠も二条御所に立てこもりますが、最終的には討ち取られてしまいました。

なぜ明智光秀は裏切ったのか?本能寺の変はなぜ起きた?

ではなぜ光秀は謀反を起こしたのでしょう? その理由ははっきりとわかってはいませんが、いくつかの考察はなされています。

例えば光秀が外交を担当していた長曾我部家と織田家の関係が悪化し、光秀の立場が苦しくなったために謀反を起こしたとする説。あるいは常日頃、信長からパワハラのような扱いを受けていたために、そのストレスが爆発して謀反を起こしたとする説。あるいは朝廷から密命を受けたとする説や、のちの勝者である秀吉や家康、京都から追放された足利義昭が黒幕にいたとする説などです。
これらの説はいずれも確固たる証拠はないものの、歴史ファンとしては心踊らされるものだと思います。

なお、本能寺の変の謎やなぜ光秀が裏切ったのかを深堀したものが以下の記事となりますのでご参考ください。

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本能寺の変が与えた影響

本能寺の変は後の歴史に大きな影響を与えました。

まずは明智光秀。

光秀は織田信長を討ち取ったあと、朝廷との交渉や安土城の確保、近畿地方の国人衆などの調略など、自身の地位を確立すべく奔走します。

しかし本能寺の変からわずか十一日後に「中国大返し」で電光石火の行軍を見せた羽柴秀吉によって、山崎の戦いで敗北してしまいます。
これにより光秀は「三日天下」に終わり、光秀を討ち取った秀吉が織田家のなかで発言力を強めていきます。

本能寺の変をめぐる一連の騒動がいったん落ち着いたあと、信長・信忠親子を失った織田家の力はすでに形骸化していました。

戦後の領地の分配や今後の織田家の行く末について重臣である柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人が会談を開きます。俗にいう「清州会議」です。

ここではさまざまな説がありますが、結果として世継ぎは信長の孫にして信忠の嫡男である三法師(のちの織田秀信)と決まります。傅役には堀秀政が着任し、会議に出席した四重臣が三法師を支える体制となります。

この会議でよく言われるのが、柴田勝家と羽柴秀吉の対立です。勝家は三男・信孝を世継ぎに推薦しましたが、秀吉が三法師を推薦。結果として主君の仇討ちを果たしていた秀吉がこの争いに勝ち、三法師が世継ぎとなったというものです。

しかし一方で世継ぎははじめから三法師と決まっていたとする見方もあるようで、このときに話し合われたのは「まだ幼い三法師が成人するまで、どのような体制で織田家を支えていくか」ということだったとも言われています。

この会議でどのような主旨の話し合いが行われたにせよ、間違いないのはこれまで織田家臣筆頭だった柴田勝家の発言力が低下し、秀吉の発言力が強まったということです。

秀吉は傅役の堀秀政と手を組み、会議にも出席していた丹羽長秀と池田恒興を懐柔し、自身の地位をより盤石なものへとしていきます。
また、信長の葬儀に際しては喪主に信長からの養子である羽柴秀勝を喪主に立て、自らが信長の実質的な後継者であることを世間に向けてアピールしています。

これに対し信孝は柴田勝家、さらには会議に出席できなかった重臣・滝川一益を味方につけて反秀吉勢力をつくります。
これによって織田家内部での争いは決定的となります。最終的には清州会議での決定も破棄され、勝家を除く秀吉、長秀、恒興の三人によって次男・信雄が織田家の家督を継ぎます。これによって秀吉と勝家の対立は決定的なものとなり、有名な「賤ヶ岳の戦い」へとつながっていきます。

これ以降の秀吉は家康との戦いや、各地方の大大名との戦いを経て、天下人へと昇り詰めていくのです。
本能寺の変はそれまでに織田家の天下と思われた勢力図を一変させることとなりました。

本能寺の変のまとめ

ここまで本能寺の変について、そして本能寺の変が与えた影響について簡単に見てきました。

本能寺の変は織田信長がわずかな手勢で明智光秀の軍勢の通り道である京都にわずかな手勢のみを率いて宿泊していたこと、また近畿周辺に大きな軍勢を率いていたのが光秀しかいなかったことなどの要因が重なった結果、発生しました。

荒木村重や松永久秀など、何度裏切られてもはねのけてきた信長でしたが、このときは力及ばず討ち取られてしまいます。さらに嫡男・信忠も討ち取られてしまったことで、織田家は支柱を失い、影響力を弱めていきます。

また、信長を討った光秀も「中国大返し」で攻め寄せてきた秀吉との戦いに敗れてしまい、最後は討ち死にしてしまいます。これによって秀吉は主君の仇討ちを果たし、織田家内部で急速に発言力を強めていくこととなったのです。

本能寺の変の後は織田家内部で秀吉と勝家の対立が起きました。

秀吉は自らの強まった発言力だけでなく、丹羽長秀、池田恒興といった重臣を味方につけ、自らの勢力を盤石なもののとしていきます。

これに危機感を持ったのが信長の三男・信孝です。信孝は柴田勝家のほか、「清州会議」に出席できなかった滝川一益を味方に引き込み、反秀吉勢力を形成していきます。

この2つの勢力争いは「賤ヶ岳の戦い」で勝家に勝利した秀吉へと傾くこととなります。
織田家内部での覇権争いの勝者となった秀吉はその後、各地方の大大名たちを降伏させていき、最終的には天下人にまで上り詰めることとなるのです。

結果として本能寺の変は信長の死をきっかけに、織田家内部の勢力図を一変させ、それまで天下にもっとも近かった織田家の凋落をまねく結果となっていったのです。

以上、本能寺の変についてとこの事件が与えた影響についてでした。

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