ザビエルはスペイン出身の宣教師ですが、教科書にも載っていることから「ザビエル」という名前と「宣教師である」ということは多くの方がご存じでしょう。
ちなみに宣教師とはキリスト教を国外に広める人たちのことを指します。
ザビエルはパリでキリスト教を学び、修道会「イエズス会」を仲間たちと結成しました。
イエズス会はインドなどアジアで約7年布教活動を行い、1549年に鹿児島にやってきます。
今回はそんなザビエルについて、日本国内でどういったことをしてきたのか、どんな活躍をしたのか簡単にわかりやすく説明します。
ザビエルは日本にキリスト教を伝えに来た宣教師
ザビエルの若かりし頃はヨーロッパではカトリックの勢いが弱まっていました。カトリックを改革し、海外に広めたいと考え、そのための「イエズス会」を設立し、インドへと向かいます。
その道中、日本人に出会ったザビエルは日本にキリスト教を広めようと思い、1549年、ザビエルは鹿児島にやってきます。
天皇へ不況の許可をもらうために京へ向かったが、当時京は戦乱に次ぐ戦乱で荒れ果てており、布教活動どころではない状況でした。
そのため今日から戻り、山口に行くなどして、大内義隆、大友宗麟、島津貴久などの今でいう九州方面の有力大名らと会い、お土産を持参して布教の許しをもらいます。
しかしなかなか布教活動はうまくいかず、苦戦を強いられます。
そんな中、日本でキリスト教を広めるためには、当時日本の文化などに大きな影響力を与えていた中国にキリスト教を広めるのが先だろうと考え、中国へ向かいます。
1551年ザビエルは日本を離れ、中国へと向かいます。
しかし、なんとその1年後に病気で亡くなってしまい、日本に戻ってくることはありませんでした。
ただ、死後70年たった後、ザビエルはローマ教皇から多くの功績が認められ「聖人」の称号が与えられます。
ザビエルはフランシスコ・ザビエルと教科書に載っていたが本名は違う?
ザビエルと言えば教科書にも載ってますし、特徴的な見た目から落書きした覚えがある人もいるのではないでしょうか?
私のころは「フランシスコ・ザビエル」と習った記憶がありますが、これは実は本名ではないそうです。
正確には、「フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエタ・イ・エチェベリア」と言うそうです。
フランシスコの部分が彼の名前となりますが、その他の部分は地名等となります。
「フランシスコは自分の名前」、「ジャッコアは父親の名字のバスク語読み」、「アスピルクエタは母親の名字」、「イは英語のandのようなもの」、「エチェベリアはバスク語で新しい家を意味するエチェベリの訛り」であります。
ザビエルってどこにも入ってないような、、、と思ったかもしれません。
ここにはローマ字スペル表記の仕方や読み方等が大きく関連してくる問題になってくるのですが、「エチェベリア」の部分の読み方が関係してきます。
まず、ザビエルの故郷であるスペインのバスクはスペイン語、バスク語など複数の言語が使用されています。
エチェベリアのスペルがChavierやXabierreなどとされるのですが、カスティーリャ語(中世スペイン語)ではXavier(シャヴィエル)、現代スペイン語ではJavier(ハビエル)となっているようです。
つまり、これがザビエルの語源の元となっているということです。
結局のところ本名はどう解釈すればいいのかすっきりしませんでしたが、日本国内で話す分には「フランシスコ・ザビエル」と覚えておけば問題が無いかと思います。
なお、参考までにザビエルに大きな縁のある地、山口県ではサビエル高等学校などがあることからもわかる通り、サビエルと呼ばれるようです。
ザビエルのミイラ
ザビエルのミイラについて現在まとめ中。
ザビエルまとめ
ザビエルについて簡単に紹介させていただきました。
ザビエルってよく考えると何をしていた人物なのか知らないなという方も多いかもしれませんが、これを機に興味をお持ちになった方は是非詳しく調べてみてください!
- 1506年4月7日生まれ
- 1552年12月3日病気で亡くなる
- 本名は「フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエタ・イ・エチェベリア」らしいが「フランシスコ・ザビエル」と覚えておけばOK
- スペイン出身で、パリでキリスト教を学んだ宣教師
- 日本にキリスト教を広めるためにやってくるも広まらず、中国へ向かったが病気で亡くなる
- スペインの城主の息子であり、ザビエル城が今でもスペインに跡地が残る
- 死後、功績が認められ聖人の称号が与えられる