福沢諭吉って何をした人?革新か保守か!?思想と実像にも迫る

福沢諭吉の功績なくして、近代日本の発展については語れません。

慶應義塾の前身となる蘭学塾を設立、『西洋事情』や『学問のすゝめ』など多岐に渡る作品の執筆、時事新報の創刊など、その活躍は枚挙に暇がありません。しかし華々しい活躍の影にあって、福沢自身の人間性については、一般に知れ渡っていない部分が数多く存在します。

そこで本記事では、福沢諭吉の経歴を辿る中で、彼の思想や人物像について掘り下げてみたいと思います。

  • 出身地:大阪
  • 生没年:1834年12月12日~1901年2月3日(享年63歳)
  • 『学問のすゝめ(すすめ)』と書き、慶應義塾を開いたことで有名
  • 戦火の中においても授業を続けたというエピソードが有名
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『学問のすゝめ』の発刊や慶應義塾の開校、多くの名言など福沢諭吉の人生と功績について

福沢諭吉は、大阪にて中津藩士である福澤百助と妻・於順の間に次男として生まれました。
しかし父・百助とは生後間もなく死別、一家は大阪での厳しい生活を余儀なくされます。

当初、福沢諭吉は幼くして母の側にあり、家事手伝いや内職仕事をするなどして過ごしたとされます。したがって福沢が学問を始めたのは13、4歳の頃とされ、同年代と比べても時間的な不利は否めませんでした。
また、子供の頃から「同じ人間なのになぜ身分の差がこんなにあるのだろう」と疑問を抱いていました。

それにも関わらず、福沢諭吉は驚異的な理解力と勤勉さで、たちまち同年代や先輩を追い越してしまいます。また福沢自身も豪語するところ、その文才については周囲の大人たちをも驚かせたそうです。

やがて福沢諭吉は一般的な教養では飽き足らず、蘭学や西洋文明の研究に没頭するようになります。
江戸時代末(諭吉25歳の時)には江戸で蘭学塾を開きます。
こうした中で起こった、1853年のペリー来航と幕府の欧米使節団の派遣は、福沢諭吉にとって転機といえるものでした。

彼は知人の伝手で使節の一人として船に乗り込むと、現地の様相を事細かに記憶し、報告書としてまとめます。当時、こうした福沢諭吉の姿勢は、欧米との交流が全くと言っていいほど無かった当時の日本人では、異例と言っていいものでした。

この時に得た知識を基に執筆されたのが『西洋事情』であり、この本は当時、偽版が出回るほど注目されたと伝わっています。かくして福沢諭吉は、貧しい生まれながらも、必死に学問に打ち込むことで道を開いたのでした。

その後、自分の蘭学塾の名を慶應義塾(後の慶應義塾大学)と改め、男でも女でも、どんな身分でも洋学を勉強できるような場所としました。

さらに、1872年には「学問のすゝめ」を刊行します。身分や貧富の差に関わらず学問が重要であること、勉強することの大切さが書かれている本です。
ところで、福沢諭吉の代表作であるこの『学問のすゝめ』の冒頭、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」はあまりにも有名ですが、実はこれには続きがあります。曰く、

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われる。……しかし、今、広くこの人間社会を見渡してみると、賢い人もいれば、愚かな人もいるし、貧しい人もいれば、金持ちもいるし、生まれながらにして身分の高い人もいれば、人に使われる下人という人もいる。このように、同じであるはずの人の間に雲泥の差があるように思われるのはどうしてだろうか。だが、この答えは実に明白なものだ。昔の教えには、「人が学ばないならば智は無いし、智が無いならば愚かということだ」とある。この言葉の通り、賢人と愚人との違いは、学ぶのか学ばないのかという違いから生まれてくるだけなのだ。

つまり福沢は、「人は平等と言っても、現に貧富の差、生まれ持った身分の差は存在するじゃないか。」と皮肉ったわけです。その上で、生来の人々の差はどうして生まれるのか、それは学問をするかしないかの差であると説いたのです。

この言葉には、福沢自身が貧しいながらも、学問によって身を立てたことに対する自負が込められていたのでしょう。『学問のすゝめ』は大衆への啓蒙書であると同時に、福沢諭吉の半自伝的書物でもあったわけです。

厳格な国粋主義者

福沢諭吉は生涯3回に渡って欧米を視察した折、西洋諸国の先進性について、驚嘆を持って論じます。中でも、フランスの議会制度について、以下のように述べております。

(フランスの)代議士には身分や貧富の差は関係なく、人々の信任を得ることが大事なのであって、すなわち彼らの意思は国民の意志であり、政府の官僚たちとは全く違う。

福沢は当時の日本人にあって、民主主義の原理を理解していた数少ない人物でしょう。実際、彼と同様に欧米へ派遣された使節の多くは、民主主義や議会制度を複雑で理解できないと報告しています。

また福沢は欧米の自由経済についても、関心を示しています。

鉄路を造るには巨額の資金が必要だが、それは政府からの出費ではなく、鉄道会社によって造られる。

富む者はますます栄え、貧しい者は一層貧しくなる。

彼は欧米諸国の自由な経済活動に着目し、公共と民間の相互活動で社会の諸問題を解決するシステムを理想的と捉えました。また資本主義における貧富の拡大についても理解し、その欠陥を鋭く指摘しています。

他方で、福沢諭吉のアジア諸国に対する評価は、極めて厳しいものがありました。彼は清(中国)を指して、次のように評します。

100年に渡り洋書を学ぶ者もなく、西洋の物品を試すこともない。(諸制度の)改革において緩慢、実に驚きを禁じ得ない。

己の力を理解せず、無闇に外国人を追い払おうとし、反対に外国人に追い詰められる始末は、実に身の程知らずだ。

福沢諭吉にとって、清とは優れた文明を取り入れようとせず、そのくせ自分の力を過信した怠慢な輩だと言うのです。それに比して日本は、清やその他アジア諸国の中でも、西洋文明を積極的に受け入れている点で優れていると福沢は論じたのです。彼は著作『時事小言』で以下のように主張します。

現在の東洋諸国の中で、文明の中心として発展し西洋と渡り合えるのは、日本国民以外にはありえない。……中国や朝鮮などの怠慢な近隣諸国に当たる際は、……武力を持って彼らを保護し、文を持って彼らを誘導し……

つまり福沢諭吉にとって、欧米諸国は学ぶべき相手であり、アジア諸国は怠慢で日本より劣った存在でした。彼は欧米諸国がアジアを植民地化していることに倣って、日本も近隣諸国へ積極的に介入し、アジアの盟主の地位を確立すべきと説きます。

福沢諭吉は西洋信奉者であると同時に、厳格なナショナリストでもあったのです。

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実力主義者

福沢諭吉がナショナリストであることは先に述べたましたが、そんな彼にとって理想の国家とは何だったのでしょうか。その答えは1874年頃から活発化した「自由民権運動」にありました。

政府に国会開設を求める声が高まる中で、福沢は国会の即時開設を支持、イギリス型議会政治の導入を訴えます。

一見すると、福沢が社会運動に肯定的だと思えますが、そうではありません。現に福沢は、自由民権運動の急進派を「駄民権論者」と口汚く罵っています。また彼は「政府は国会を開き、国を安定させ国外の有事に当たるべき」と政府寄りな提言も行っています。

つまり福沢は大衆世論に同調したのではなく、自由民権運動が長引くことによる国内秩序の混乱を恐れたのです。それならば国会開設を早急に認め、国内を安定させた方が、国にとって良いと考えたのであり、ここでも福沢諭吉のナショナリスト的側面が垣間見えます。

ゆえに福沢諭吉は、自由民権運動の急進派を、闇雲に国内を混乱させる無知の輩だと非難したのです。彼にとって国家とは、自立した国民一人ひとりが支えていくもので、それを妨げる者は不必要だと考えられたのでしょう。

その意味では、福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず」から連想される平等主義者のイメージとは異なり、賢明さを好み、怠惰な人々を嫌う「実力主義者」の一面を持っていたと言えるでしょう。

福沢諭吉の年表

福沢諭吉について紹介しましたが年表で時系列で確認したい方はこちらも確認ください。

年月日 出来事
1834年 福沢諭吉12月12日に生まれる
1836年 父が死に大阪から中津へ
1854年 蘭学を学ぶ
1858年 江戸で蘭学塾を開く
1860年 咸臨丸でアメリカへ渡る
1864年 江戸幕府の翻訳御用になる
1868年 蘭学塾を慶應義塾と改め開く
1872年 学問のすゝめを発行
1901年 68歳で病死する

福沢諭吉まとめ

福沢諭吉は、思想家・教育者としての革新的な側面が強調される他方で、当時としては斬新な国家論を提唱するなど、保守論者としての顔も持ち合わせていました。

また福沢は必ずしも大衆の抗議や運動には同調せず、時に「愚民」などの厳しい言葉でもって彼らを非難します。これは日本がアジアや西洋諸国から独立を勝ち得るには、国民が自立し一丸となって、国家を支えていかなければならないという考えに基づいての事です。

彼が『学問のすゝめ』で学ぶことの大切さを説いたのも、国民一人ひとりが自立し、日本を支えてくれる人になって欲しいという想いに他なりませんでした。
ある意味で、福沢諭吉は当時の日本人を最も憂い気にかけていた一人だと言えます。

また、「文明論之概略」では、自由な発言と自由なコミュニケーションが日本を発展させると書き、人々に独立自尊心の精神が大切であると説いたりもしています。

福沢諭吉とは、単なる教育者や思想家ではなく、日本を官民一体の主権国家へ導こうとしたナショナリスト、現実主義者だったのです。

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