織田信長とはどんな人物だったのか?簡単にわかりやすく解説!

織田信長という名前を知らない人はほとんどいないでしょう。日本の戦国時代においてもっとも有名な武将です。
しかし織田信長が実際にどんな人生を歩んできたのかは意外と把握されていないのではないでしょうか。ここではそんな信長の人生を紹介していきます。信長の生涯をみることで戦国時代の変遷も見えてくるでしょう。

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信長の生涯

織田信長は尾張半国の主である織田信秀の嫡男として生まれます。
信長は織田家の世継ぎとなることが決まっていましたが、それは正室を母と持つからのようで兄にあたる人物もいます。

父・信秀の急死により織田家を継いだ信長は苦しい状況でした。「尾張のうつけ」と言われ評判が悪かったことも一因ですが、尾張国内に多くの敵を抱え、三河方面には今川家という大勢力があったからです。こうした危機的な状況のなかで信長は弟・信行(信勝)を誅殺するなど、ときには過激な方法を用いながら尾張を統一します。

信長はその後、息つく間もなく大きな戦いに身を投じます。
有名な桶狭間の戦いです。2万5千とも4万ともいえる今川の軍勢を奇襲により打ち破った信長は独立した三河の徳川家康と同盟を結びます。永禄4(1561)年のことです。

その後、信長は美濃攻略に着手します。
しかしここでも苦戦を強いられます。齋藤家の当主であった斎藤義龍は戦上手でなかなか勝利することができなかったのです。

信長が美濃攻略の好機を得るのは義龍が死去し、息子の竜興が後を継いだ永禄10(1567)年になってからのことでした。齋藤家を支えていた美濃三人衆を調略した信長は侵攻を開始、竜興は国外逃亡し信長は美濃を手中に収めます。

このときに信長は本拠地を尾張の清州城から美濃の岐阜城へと移しています。これは上洛を見据えた行動であったと言われています。

また岐阜城という名前は信長が命名したものです。
それまで岐阜城は稲葉山城と呼ばれていました。また地名も井ノ口と呼ばれていたそうでしたが、信長はこれを岐阜で統一しています。

信長の人生の約3分の2は尾張統一と美濃攻略に費やされていたのです。

美濃攻略を達成した信長はすぐさま上洛へと乗り出します。
このとき室町幕府は三好三人衆が牛耳っており、14代将軍・義栄が将軍に就いていました。信長は足利義昭を将軍とするためにこれと対立。反抗してきた六角家や三好家に勝利して上洛を果たします。
このとき信長は「天下布武」の朱印を使用し始めています。これは近畿地方を武力によって安定させるという信長の政権構想を現したものでした。
一般に言われるような日本全国を統一しようとするものとは違ったのですね。

上洛を達成したことを義昭は喜び、信長を義理の父と仰ぐほどに頼りにしていました。しかしその後、信長を取り巻く環境は悪化していきます。

信長は上洛後、周辺大名たちに京の町への参集を呼びかけますが、越前の朝倉義景がこれを無視します。

これを信長は敵対行為とみなし、若狭武田家で起きた反乱を鎮圧するという名目のもと、朝倉家の領地へ侵攻を開始します。

当初、戦は有利に進み織田軍には勝ち戦のムードが漂っていました。
しかし同盟相手であったはずの近江の浅井家が裏切ると状況は一変します。前後から挟み撃ちを受けることになった信長は撤退を余儀なくされ、命からがら京都まで逃げ延びました。

このときの有名なエピソードとして信長の妹で浅井家当主・長政の正室であったお市の方が袋の両端をひもで縛った小豆を送ったというものがあります。これは信長が袋のネズミになっているというなぞかけでこのメッセージに気づいた信長はすぐに撤退したという話があります。兄妹の絆や信長、お市の方の機転の早さが垣間見えるエピソードですね。

退却後の信長は周辺国のほとんどを敵に回すことになります。具体的には浅井、朝倉、三好、武田、本願寺などの宗教勢力です。このような織田家と領地を接する周辺勢力と敵対していた状態を「信長包囲網」といいます。

信長は自身を裏切った浅井家を討伐すべく、徳川軍と連合を組んで姉川に陣取ります。長政もこれに朝倉家の軍勢と連合を組んで対峙します。姉川の戦いです。信長はこの戦いに勝利し、浅井朝倉軍は力を弱めましたが、信長の状況は必ずしも好転したとは言い切れませんでした。

織田家は当初この包囲網に苦しみました。特に強敵だったのは比叡山などの宗教勢力です。彼らは宗教勢力である一方、お布施や金貸しによって大きな勢力を有していたのです。信長はここに目を付けます。包囲網を崩すために比叡山延暦寺に焼き討ちを仕掛けました。これは有名な事件ですね。

信長の生涯の戦いで一向一揆との戦いはもっともリソースを割いた戦いと言えます。比叡山焼き討ちの前には長嶋城の一向一揆に実弟・信興を討たれており、信長はこの報復のためともいえる大虐殺を繰り広げています。

また一向一揆の総本山である石山本願寺との対決は本願寺法主の顕如が1580年に退去するまでの約10年間続きました。

加えてこの包囲網のなかで武田信玄や上杉謙信といった名将との対決も実現しています。

武田信玄は1573年に徳川家康と対決。三方ヶ原の戦いです。この戦いでは信長は直接対決していませんが、信玄の大勝に終わっています。この直後に信玄が急死し、九死に一生を得ることになります。

上杉謙信とは能登国の主導権を巡って争うことになります。ここは畠山家の領地でしたが、その跡継ぎ争いで両家は対立することとなったのです。俗にいう手取川の戦いです。

この戦いで信長は大敗を喫し、織田軍は撤退しています。

信長にとって大きな敵は武田や上杉のほかに毛利家などもあげられますが、最大の敵は本願寺でした。小谷城の戦いや長篠の戦いといった大一番で敵を倒し続けていた信長ですが、もっとも時間をかけたのが本願寺です。本願寺は最大の宗教勢力として強い勢力を誇っていました。信長は天王寺砦の戦いなど激戦を経て、ようやく顕如を退去させることに成功します。

信長は生涯にわたって多くの裏切りにあっていました。弟・信行(信勝)の裏切りに始まり、柴田勝家や浅井長政、松永久秀に至っては3度も裏切りを受けています。荒木村重に裏切られたときは怒りから彼の一族を処刑していることがある一方で信長は裏切ったものを許す傾向にもあります。

この結実が本能寺の変です。このときの信長は武田勝頼を滅ぼし、毛利家との戦を有利に進め、四国進出を狙うという段階でした。そんななかで近畿地方は空白となっており、唯一大軍を率いていたのが明智光秀だったのです。

信長は光秀の襲撃にあい、自刃することになります。多くの苦難を乗り越え、天下をつかむ寸前になってあっけなく討たれてしまうのです。

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