【本能寺の変】明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?黒幕がいる?裏切りの謎に迫る

明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか。
歴史ファンのみならず多くの方がその謎に関心を持っています。
怨恨による裏切り、黒幕がいる説など様々な説が考察されていますが、現在においても謎は解明されていません。

ここでは、当時の歴史的背景や光秀と信長、その周辺を取り巻く環境なども視野に入れながら戦国時代の大きな謎として人気のテーマである「本能寺の変」について深く迫っていきたいと思います。

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本能寺の変前後の時代背景を押さえる

まずは、本能寺の変が起こる前の歴史的な背景や事情をおさらいしておきたいと思います。

本能寺の変が起きたのは1582年6月のことですが、同じ時期に騎馬軍で有名な武田氏が滅んでいます(1582年3月)。

当時の織田信長の勢力図を考えると、信長に敵対していた(敵対できた)勢力としては、武田氏、毛利氏、長曾我部氏ぐらいのものでした。
武田氏は信玄亡き後四男の勝頼が後を継ぎましたが、長篠の戦の敗戦(1575年)を機に徐々に弱体化し(それでも信長の脅威ではあった)、1582年3月についに滅びます。
そしてこの出来事が意味することは、東側に信長の脅威は無くなったということです。
※北条氏などは敵対の意思は無い状態となっていたため。

そして残すは西の毛利と長曾我部ぐらいのものでしたが、羽柴秀吉の活躍により毛利攻めも順調であり、同様に長曾我部も丹羽長秀らが侵攻の準備を進めていて時間の問題であると考えられていました。

このような状況の中、1582年4月「三職推任問題」として知られる朝廷の勅使から太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれか望むものに任命すると伝えられるという出来事がありましたが、ここからわかることとしては、当時の織田信長は朝廷を含めて多くの者たちが天下人として認めていたという背景があるとわかります。

そしてこの出来事の後すぐの5月、わずかな人数の側近達とともに安土城を離れ、京都の本能寺に入りました。

この時織田信長は自ら毛利攻めに向かう予定があったと伝えられているので、恐らく毛利攻めに向かうために本能寺に入ったのではないかと言われています。

しかし、翌月の6月に明智光秀によって信長は討たれることとなるのです。

明智光秀は信長を尊敬していた?なぜ裏切りが起きた?

上記のように織田信長は天下人として認められつつある状態でした。
明智光秀も信長を尊敬しており、感謝をしていた、という風に伝えられています。

例えば、有名な話でいくと、1581年2月28日に行われた、織田軍の軍事パレードである「御馬揃え」というものがあります。
これは織田軍の超一大ビッグイベントです。
光秀はそんなビッグイベントの指揮を任される程信長から信頼されており、この指揮官に任命されるということは実質織田軍でナンバーワンであると信長自身から言われたも同然と言えることです。
織田家といえば、柴田勝家や羽柴秀吉らが有名ですが、彼らが北陸方面や中国方面の攻略に行かされているのと対照的に明智光秀は信長のそばで近畿を管轄する地位におり、ここからもわかる通り実質織田軍ナンバーワンともいえる立場にあり、光秀自身も自信を持つとともに感謝していたのは間違いありません。

信長に対する感謝の思いが記された書物も見つかっています。

この他にも様々なエピソードがありますが、いずれも信長に対する敬意・尊敬の念がわかる出来事ばかりです。

本能寺の変に一番近い時期の出来事としては、1582年のお正月の茶会での出来事がありますが、この時にも信長に対する敬意があったことがわかっており、それにも関わらずその半年後の6月に信長を裏切り殺してしまうような出来事が起きようとは想像できないことなのです。

いったいこの半年の間に何が起きたのか。
この半年の出来事等が歴史が好きな方々でいろいろと意見や説がわかれるところとなります。
現在でも明確な正解はわからないのですが、根拠もあげつつ何故光秀が信長を裏切ることになるのか見ていきたいと思います。

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いくつもの出来事が重なり本能寺の変の動機となっていったのが有力

有力な1つの出来事として「これが動機である」というものは残念ながら現在でもわかっていません。
そしてそれ故「真の黒幕説」などの可能性が指摘されたりしています。

とはいえ、小さなこと、大きなこと含めて出来事候補はいくつかありますので、光秀が信長を裏切るに至った出来事の候補を洗い出していきたいと思います。

怨恨説

ポピュラーな説としては怨恨説があげられます。

1575年、信長は丹波攻略を光秀に命じます。

八上城の波多野三兄弟が背いたことで大きな苦戦を強いられることとなりますが、光秀は自分の母を人質として八上城に預け、波多野家の身の保証をしたうえで降伏させます。

しかしながら、信長は約束を破り波多野三兄弟を殺してしまいます。

そうなると八上城にいる光秀の母は波多野家の家臣に殺害されることとなってしまいました。

これは光秀が信長を恨むに十分な出来事と考えられ、本能寺の変の動機として有力なものと考えられます。

この後、近江・丹波を治めていた光秀はそれらを信長に取り上げられ、岩見・出雲に左遷されるという出来事があります。
こうしたことからも信長を憎んだとされる理由の一つとされています。

これら出来事は本能寺の変が起きが動機としては一見十分に見えますが、あくまで説の1つとして考えられています。
というのも、史料とされているのが「総見記」と「明智軍記」の2つなのですが、どちらも江戸時代につくられたものだと言われています。
こうなると真実としての根拠は薄く、信憑性という点で疑問が残るということになります。

ただ、こうした話が残るぐらいなので、何かしら信長と光秀の間にあったと考えることはできるかと思います。

現職の太政大臣に対する非礼や滅亡する武田家に対する非礼

「甲陽軍鑑」という間違った記述も多いと言われる武田軍の資料(真偽不明の資料です)に記載されている事項となりますが、武田攻めが完了し勝利した信長はその帰り道で、太政大臣の近衛前久(このえさきひさ)が「駿河路を同上したい」と申し出たところ、信長は「木曽路から帰れ」と言い放ったと記録されており、しかも太政大臣を呼び捨てにしていたとの記録もあります。
極めて異例な非礼と言えます。

また、他の資料では、武田勝頼の首実検の際に、首を蹴り飛ばしたという記録も残っています(細川家史料)。
仮に敵であったとしても丁重に扱うのがルールであり、非常識な行いであると言わざるを得ません。

その他「恵林寺」焼き討ちという事件もあり、正親町天皇から国司号が送られた高僧である快川紹喜(かいせんじょうき)も焼き殺されます。

これらの多くは先ほど記載した通り真偽の程は定かではありません(恵林寺焼き討ちは史実で信長自身ではなく息子の信忠に命じている)が、こうした記述が他にもたくさん残っているという事実は重要で、恐らく何かしら信長の態度はかなり悪かった、悪化していったことは間違いないと予想できます。
大きな難敵である武田家を滅ぼしたことで傲慢になったのではと考える方は多いです。

こうした出来事と本能寺の変がどう繋がるかというと、武田攻めには明智光秀も参加しており、上記の太政大臣に対する非礼は間近で見ていたと想定されています。

また、光秀は天皇家に対しては尊敬の念を持っていたことから、これらの出来事に対して何かしらの感情を持ったとしても不思議ではありません。
朝廷に対する信長の振る舞いは光秀の心に何かしらの不満や不安を蓄積させていった可能性は非常に高いと考えられています。

本能寺の変の当日に、光秀から美濃の西尾光教に送られた書状によると

「父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候」

との記載があるようです。

光秀は信長と息子の行いは天下の妨げになると言っているので、上記のような行いを良く思っていなかったという根拠にはなりえるかと思います。
ただ、この書状が本物であるという証拠はないようです。

しかしこれが本物であるならば本能寺の変がなぜ起こったのかという根拠の1つとして考えることはできるであろうと思います。

光秀が織田家内でのポジション争いで劣勢になったから

光秀は織田軍ナンバーワンともいえる立場にいましたが、ポジション争いで織田軍の中で後れを取りそうな状況になりつつありました。

良く知られていることとしては「徳川家康の饗応役」を解かれた出来事です。

信長は1582年5月に安土城で家康をもてなすイベントを開催しますが、その任を任されたのが光秀です。
光秀は事前準備を進めていましたが、突如饗応役を解任されてしまいます。
いろいろ説はありますが、手際の悪さから解任されたのではというところとなりますが、そうでもないという説もあります。いずれにせよ、突如解任されてしまい、光秀の面目は丸つぶれであったということが考えられます。
また、そのあとすぐに、毛利攻めで苦戦している秀吉の応援に行ってこいと命じられてしまいます。
これはつまり秀吉の下に入るということを意味しますので、光秀にとってはあまり良い感触を抱かないできごとです。

こうした本能寺の変の直前のできごとも、裏切るきっかけの一つになっているのではないかと考えられています。
※諸説あり、特に解任された出来事などは本当の理由などがわかっていないことから説の1つとしてご覧ください。

長曾我部家との関係が引き金になったという考え

もう一つよく言われる説としては、長曾我部元親との関係です。

光秀は長曾我部家との取次役として活動していました。
光秀は自分の家臣である斎藤利三の義妹を元親の妻として送りこんでおり、関係強化に努めていました。

そのような中、信長は長曾我部元親に対して「四国切り取り自由」の約束をしていましたが、信長の思惑によりこれを破棄し四国統一は認めないという方針に変わり、一方的に断交が行われ、光秀はこの役そのものを罷免されます。これにより取次を行っていた光秀は苦境に立たされます。

このことにより本能寺の変に繋がったという見方も一定度される研究者の方もいらっしゃいます。
これも根拠としては不十分で確かなことはわかっていませんが、動機の一つとしては考えられそうなものです。

いずれにせよ、これら紹介したものが積み重なっての本能寺というのが考えやすいかと思います。

本能寺の変「黒幕説」を紹介!

上記は歴史的背景をもとに一般的に考えられる本能寺の変の動機として考えられる事項となりますが、歴史ファンとして人気なのが黒幕説です。

徳川家康や秀吉黒幕説などいくつかありますが、有力なものをいくつか紹介します。

天皇・朝廷黒幕説

本能寺の変の黒幕説の候補の一つが朝廷・天皇黒幕説です。
一般説の方でも記載しましたが、信長は朝廷や天皇の権威を否定していた、という考え方があり、それらが原因で信長は殺されたという考えです。

例えば、正親町天皇に譲位を申し入れる出来事が1573年の12月にありましたが、天皇はこれを受け入れ、翌年の春に新天皇誕生という段取りとなりました。
この譲位を申し入れるという行為が天皇の地位から引きずり下ろす非道な行為であると考えられていたのですが、ただ、当時の慣習を鑑みると早々に天皇の地位を辞すのが通例であり、天皇のまま死を迎えるのが異常事態とも言えた時代であることから、信長の譲位の申し出はむしろ感謝の意を表していたとも考えられ、黒幕説はやや懐疑的です。

この他にも朝廷が司る暦に対して口出しするといった暦問題等が事例に取り上げられたりしますが、これらも否定的にとらえるのが一般的となっています。

足利義昭黒幕説

足利義昭黒幕説も有名ですね。裏で明智光秀と関係を結んでいたと言われています。

信長に追放された後の足利義昭は紆余曲折を経て毛利輝元の庇護を受けることとなります。
足利「鞆幕府」の誕生です。
義昭は各地に妥当信長の檄を飛ばしますが、思い通りには進まず、秀吉の中国攻め等もあり毛利側が劣勢となっていきます。実質的には毛利頼りの陣容であり、幕府と呼べる代物ではありませんでした。
足利義昭黒幕説の根拠としてはこうした背景の中、「土橋重治宛明智光秀書状」が残っており、義昭の上洛を支援するといった旨を光秀から反信長派の土橋氏に伝えたことが記録として残っています。
つまり本能寺の変の前に光秀と義昭が通じていたとされ、足利義昭が黒幕なのではという考えの元となっています。

ただ、この説の大きな問題点は、この書状はあくまで光秀が義昭の上洛の支援を表明しただけのことであり、事前に通じ合っていたと証拠とはなりえないのです。
加えて、もし義昭と光秀が通じていたのであれば、毛利に対して光秀が謀反を起こすことを伝えていなかったのは大きな疑問であり、この説も否定的です。

黒幕説は否定的だが本能寺の変がなぜ起きたのかを考えることは有意義である

この他にも黒幕説は多数あり、家康黒幕説や秀吉黒幕説などはよく取り上げられるのでご存じの方も多いかと思いますが、いずれも否定的であり、そもそも黒幕がいるのであれば、本能寺の変の後の混乱というのは考えにくいということもあげられます。

また、いずれにせよこれらの説は根拠に乏しく史料が乏しいことから検証が難しいということもあります。
歴史的な背景からの推察になるので、考えるのは楽しいですし、様々な説を知るのも楽しいのですが、謎の解明には至りません。

ですが、光秀がなんで本能寺の変を起こしたのかを考えることで歴史的な理解が深まっていき、現代を生きる私たちにとっては面白いことであると言えます。

一つ恐らく確かであろうこととしては、多くの記録から光秀が信長に対してなんらかの恨みを持っていたのは間違いないだろうということです。

皆さんもこれを機に本能寺の変に興味をもっていただいたなら是非調べて頂きたいです。

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