安土桃山時代という言葉は教科書にも出てくるので聞いたことがあるかもしれませんが、織田信長が一大勢力を築き、その後豊臣秀吉が引き継ぎ天下統一を成し遂げたこの2人が中心だった時代です。
織豊時代(しょくほうじだい)とも言われることからもわかる通り、この2人の時代です。
そして、そんな時代の桃山文化は豪華絢爛と言われていますが、今回はこの2人が生んだ文化となる桃山文化について簡単に見ていきましょう。
桃山文化の特徴は雄大で華やか
信長・秀吉らがある程度勢力を掌握し、世が安定した時代となったころ、戦国大名や商人等の財力をもとに絵画や芸能、建築、工芸などの分野における芸術が大きく発展しました。
「華やかな美しさ」「雄大さ」が特徴的な文化であり、それらを桃山文化と呼びます。
時代の流れとしては仏教が中心だったところから、安土・桃山文化ではそれらが薄れ、ヨーロッパ文化の影響もありつつ上記のような多彩な芸術文化等が発展していく流れとなります。
代表的なものとしては、唐獅子図屏風の「狩野永徳」、歌舞伎を最初に始めたと言われる女性の「出雲阿国」、茶道(茶の湯)の「千利休」、その弟子で大名茶人として知られる「古田織部」等があげられます。
- 豪華絢爛・華やか・雄大
- 戦国大名・裕福な商人の財力を背景に発展
- 仏教色が薄れヨーロッパ文化の影響が入ってきて多彩な文化となる
次からは桃山文化における代表的な芸術・芸能の人物の紹介します。
桃山文化における代表的な人物・代表について
芸術・芸能・大名などを紹介していきます。
狩野永徳
加納永徳(かのう えいとく)は桃山時代に活躍した重要な人物です。
桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師であり、特に屏風絵(びょうぶえ)で知られています。織田信長や豊臣秀吉に従え絵画を制作し、安土城や大阪城の障壁画(ふすまなどに描く絵)を多数担当したと言われており、「洛中洛外図」や「聚光院障壁画」は現在国宝となっています。
加納永徳の絵画は、風景や人物、動物などを描いたものが多く、独特な筆致と豊かな色使いが特徴です。彼の作品は、桃山文化の一環として高く評価され、当時の社会や文化を伝える重要な資料となっています。
本ページのメイン画像(冒頭画像)に設定してある画像ですが、これは狩野永徳の「唐獅子図屏風」です。
画家の一族に生まれ、幼いころから活躍していたと言われています。
信長や秀吉にも作品が気に入られており、華やかで力強い作風が武将たちに人気でした。
- 1543年生まれ
- 1590年に亡くなる
- 「唐獅子図屏風」や「洛中洛外図屏風」等が有名な代表作
- 大胆かつ力強い表現が特徴でその地位を確立
出雲阿国
歌舞伎を最初に始めたと言われている女性で、出雲大社の巫女さんだったと言われています。
出雲大社勧進のため諸国を巡回し、芸能団をひきいて各地をめぐったとされていますが、1603年に京都での踊りが大評判となったようです。
その後、その踊りを発展させたものが「阿国歌舞伎」と呼ばれ、それが現在の歌舞伎のルーツであると言われています。
細かい部分では諸説ある人物であるため、参考としてご覧いただければと思います。
- 出雲出身(※出雲は現在の島根県)
- 1572年生まれとされているが、生年月日は不明とされており、没年も不明
- 女性芸能者でややこ踊りを基にした「かぶき踊り」の創始者でこれが歌舞伎のもととなっていると言われている
千利休
- 和泉(現在の大阪府)出身
- 生没年は1522年~1591年
- わび茶を完成させた茶人として知られ秀吉の側近としても有名であり多くの人から尊敬された人物
千利休はわび茶を完成させた人物として有名であり、秀吉の茶の湯の師匠でもあり、相談役でもありました。
※わび茶とはぜいたくを排除し、つつましさを大切にした茶道の追求。
安土桃山時代の代表的な茶人であり、茶を学び、織田信長のもとに仕えます。
信長の死後は秀吉に仕え、信頼も厚かったのですが、最終的には秀吉の怒りを買い、切腹を命じられてしまいます。
諸説ありますが、秀吉は利休のわび茶と正反対である黄金茶室を作ったり、反対に利休は秀吉も通る寺の門を改修した際に自身の木像を作って置いて秀吉の反感を買ったりなどして仲が徐々に険悪になっていったとされています。
この他、そもそも利休の娘を秀吉が奥さんに欲しがった時に断ったり、その他石田三成等の千利休と対立していた人物の差し金があったなど様々あるのですが、いずれにせよ不仲となり、最終的に自害を命じられるにいたってしまいました。
なお、千利休には優秀な弟子がいますが、その一人である古田織部が有名である。
古田織部
千利休の弟子の一人です。
天下一の茶人として德川秀忠などの数多くの大名に茶の指導を行ったと言われています。
非常にユニークで自由な発想をする人物だったようで、その発想が茶器づくりにも活かされています。茶器づくりに熱心に取り組み、いびつな形・面白みある変わった文様が特徴的な「織部焼」と呼ばれる陶器を発明し、大名茶人として知られています。
- 美濃(現在の岐阜県)出身
- 生没年は1544年~1615年
- 斬新・ユニークな茶器・茶道具の発明等
前田利家
前田利家(まえだ としいえ)は、桃山文化と密接な関係を持つ大名の一人です。彼は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍し、加賀藩の初代藩主となりました。
前田利家は、織田信長、豊臣秀吉の家臣であり、信任を受けて加賀国(現在の石川県)を領しました。利家は加賀藩の発展に尽力し、その統治のもとで桃山文化が栄えました。
利家は文化人としても知られており、茶道や庭園、建築などの文化を奨励しました。彼は茶人としても優れ、千利休や織田有楽斎に茶の湯を学んだと言われています。また、利家は金沢城を築き上げ、美しい庭園や茶室を整備しました。これらの取り組みは、茶道や庭園文化の振興に大いに貢献しました。
さらに、利家は文化人や芸術家を保護し、金沢を文化の拠点として発展させました。金沢は桃山文化の中心地の一つとして知られ、茶道や絵画、陶芸などの文化が繁栄しました。
前田利家の努力によって、加賀藩は豊かな文化を育み、桃山文化の一翼を担いました。彼の文化への理解と支援は、桃山時代の文化の発展に大きな影響を与えました。
桃山文化のまとめ
桃山文化の前までは閉鎖的で地味な文化、仏教色が強い文化が根強かったものが、豪華で華やかで開放的な文化へと変わっていき、建築や芸能、工芸、絵画など様々な分野で壮大で新鮮味のあるものへと雰囲気が移り変わりました。
狩野永徳らの作品は実際に見ることができますが、リアルでそれらを見ることで、豪華絢爛さが良くわかりますので、興味のある方はぜひ見に行っていただきたいと思います。