皆さんは歴史に興味がありますか?
今回は、ものすごく平和でもなく、ものすごく荒れてもいなかった時代に出てきた北条氏の中でも「北条氏康」を紹介したいと思います。
北条氏康は北条氏綱の嫡男で伊勢伊豆千代丸という名前で生まれます。後に苗字が北条となり名前が氏康となります。
北条氏康は10代の頃から父である氏綱とともに戦場で戦い、数々の戦果を挙げています。
北条氏康の戦歴について
氏康の戦歴を紹介したいと思います。
1つ目に1530年の「小沢原の戦い」です。
この戦いは敵の上杉朝興の上杉軍を退け敵軍の清水吉政と中島準人佐を引き連れ初勝利する。
2つ目に1538年の「国府台合戦」です。
この戦いは下総国(現在の千葉県)の国府台城(現在の市川市、国府台)の周辺で起こった合戦で、北条氏(北条氏綱、北条氏康)と里見氏(足利義明、里見)が戦いました。この合戦は2回に分けられ、北条氏が小弓公方(のちの喜連川藩の大将)を討ち取り勝利しました。
1546年:河越夜戦
3つ目に「河越夜戦」です。
北条氏康は父の死後家督を継ぎますが、その直後に大きな危機を招いています。
氏綱に追放されていた扇谷上杉氏・山内上杉氏、古川公方足利晴氏らが関東北部を支配していた武将たちを仲間に引き込み連合軍を結成。
8万もの大軍を結成し、北条氏から河越城を奪還すべく包囲します。
川越城は北条綱成がわずか3千名で守っていましたが、粘り強く守り、城は落とされずにいました。
その間、東駿河の奪還を狙っていた今川義元と戦っていた北条氏康は、武田晴信(信玄)を頼り和睦を模索し、東西に大きな不安な状態を抱えていたことから不利な条件をのみ和睦し、東駿河の一部を今川義元に返還する形で戦いを収め、関東に転戦。
ただ、氏康の軍勢は8千程度しかなく、圧倒的に不利な状況は変わりありませんでした。
氏康はそのような中、連合軍(上杉氏・足利氏)に対し、「領土を返還する」といった手紙を送りましたが、これにより連合軍側は北条側を侮るようになり油断を誘いました。
その後も北条軍は少し戦ってすぐに撤退をするといったことを繰り返し、敵をさらに大きく油断させることに成功します。
そしてある夜、敵勢が休んでいるところに一気に攻めかかり、見事に勝利をあげることとなります。
この「河越夜戦」をきっかけに、関東北部にまで進出しおさめることに成功しています。
三国同盟
なお、今川氏と和睦はしたもののその後も緊張状態は続いていたが、関東支配において今川氏との関係は重要であること、また同様に武田家との関係も重要であったことから、1554年に北条(相模)・今川(駿河)・武田(甲斐)による甲相駿三国同盟が結ばれています。
今川にとっても武田にとってもこの同盟は利害が一致しており、今川は西に進むにあたって背後を強化したい、武田は北信濃の平定と上杉謙信の存在により背後を安定させたいといったことがあり、同盟が結ばれることとなります。
なお、この同盟は、1568年にもともとあった外交方針をかえ、武田信玄が駿河侵攻を行い、氏康と信玄の敵対関係が強まり甲相同盟(甲は甲斐の武田家、相は相模の北条家)は破棄されました。
北条氏康の死因と死後
ちなみに、氏康が死んだあと武田氏とまた同盟を組みます。その同盟は氏康が死に際に「また武田と同盟を組め」と言ったという情報があります。本当か嘘かわかりませんが、そうした逸話が残っています。
そして、1571年に氏康は小田原城で死没しました。
氏康は一年前から中風病を持っていました。
中風とは手足がマヒし半身不随になったりする病気であることから、今でいうところの脳卒中にあたる病気だと考えられています。
死の直前は症状は非常に重かったようで、息子の顔がもうわからないなどといった状態に陥っていたそうです。
このようにして氏康は生涯を終えます。享年57歳でした。
これ以外にも上杉謙信と戦ったりと、いろんなことをしているので、是非調べてみてください。
北条氏康の名言や逸話
そして、次は氏康の「名言」や「伝説」「逸話」を紹介したいと思います。
ここでは何個か氏康に関することを紹介したいと思います。
北条氏康の名言や言葉
初めに名言や言葉を紹介したいと思います。
小事をおろそかにするな
一つ目は「小事をおろそかにするな」という名言です。
この名言は自分の子供が小さなことに時間を使っている様子を見て言った言葉です。
「何度も付け足しするぐらいなら一度で済ませろ。」という意味です。
深読みすれば、小さなことも丁寧にできなければ大きなことをした時に失敗する。逆に小さなことを丁寧にやることで、どこかで失敗してもチャンスの糸口を見つけることができ、ピンチをチャンスに変えることもできるという意味。
この名言はとても有名です。いろんな表し方だったりいろんな解釈だったりがあると思いますが、僕は高校で習った通りに書きました。
義を守って滅亡するのと、義を捨ててまで生き延びるのとでは雲泥の差がある
二つ目も名言で、「義を守って滅亡するのと、義を捨ててまで生き延びるのとでは雲泥の差がある。」という名言です。
この「義」というのは今で言う恥やルールと言った意味です。
恥を守ってまで死ぬか、恥を捨ててまで生き延びるのは恥を守る方が雲で、恥を捨てて生き延びるのは泥ということです。これはどちらが悪いとかではなく、恥を守りながら死ぬのは、この世で生きていくには多少恥を捨てることが必要だからすぐ死んでしまう。それに比べて恥を捨てて生きるのには泥臭く生きているという意味。
非常に深い名言だと思いませんか?
向こう傷というあだ名
三つ目は「向こう傷」というあだ名を紹介したいと思います。
向こう傷とは、真正面から勝負し、一度も敵に対し背中を見せたことがない証拠の傷です。
さらに、正面から戦っている時に挟み撃ちされた際も負けたことがないという解釈もできます。
そんな傷を「向かい傷」と言います。
そのような傷を持ちそんなあだ名をつけられる氏康は武力面でとても良い評価ということがわかります。
北条氏康の逸話や伝説
次は北条氏康の人柄がわかるような逸話等を紹介したいと思います。
北条氏康はビビりだった?鉄砲の音にビビる?
四つ目はどんな人柄だったのか紹介したいと思います。氏康は幼少期の頃とてもビビリだったという情報があります。
十二歳の頃鉄砲の音にビビり耳を塞いで蹲っていたところを家臣が見て「これは臆病なのではなく、勘が鋭いということだ。」助言したという逸話があります。
そのように幼少期の頃はビビりだったそうです。
そんな人が大人になったら、上杉謙信や武田信玄と肩を並べるぐらいの力を持つ人になるとは誰も思わなかったでしょうね。
北条氏康は酒が嫌いだったが蹴鞠や和歌が好きだった
さらに氏康は、酒が嫌いだったそうです。
酒を飲んでいる時に、襲われたトラウマがあるそうで、そのため酒は夜には飲まずに朝に飲んで勢いをつけるようにしていたみたいです。
しかし、氏康は蹴鞠や和歌が好きだったそうで、よく戦が終わると朝まで和歌で遊んでいたみたいです。
四公六民など政治は上手で戦も強い
そんな氏康はとても頭の良い人でした。ピンチな状況でも冷静な同盟の判断をするなどの、冷静な外交戦略や「四公六民」の税制を守りながら、「北条氏私領役帳」をまとめ上げるなど政治力もあり、武力と文学どちらもできる武将です。
そして、氏康は小田原城での引きこもり戦法が有名です。
敵に攻められた時に自分の城に立てこもり、相手が諦めるのを待つ戦法です。
ちなみに小田原城は大阪城と並ぶくらい城塞です。地上から天守閣のてっぺんまで、合計三から四キロあると言われています。
豊臣秀吉に攻められたときはこの戦法は役に立ちませんでしたが、このころは氏康から氏政と時代は変わっています。
このように北条氏康という人間はとても頭がキレる人ということが分かります。
北条氏康(北条家)の家紋
北条鱗、三つ鱗と呼ばれるか門です。
父の代である北条氏綱が北条姓に改姓した時から定紋として使用しています。
家紋の意味は諸説あるため、別の機会にご紹介します。
北条氏康の年表を紹介
終わりに、北条氏康の年表を記載します。
時系列で北条氏康について簡単に追えるようになっています。
- 1515年:北条氏綱の嫡男として相模(現在の神奈川県)で生まれる。
幼名は伊豆千代丸。 - 1529年:15歳で元服する。
- 1530年:初陣。小沢原の戦いにて勝利をあげる。
- 1538年:国府台の戦い。敵の大将である足利義明を倒し、北条軍を勝利に導く。
- 1541年:父である氏綱の死。27歳の時に北条家を継ぐ。
- 1546年:河越夜戦。山内・扇谷上杉連合軍に河越城を包囲されるも、夜襲で勝利する。桶狭間合戦、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲(夜戦)」と呼ばれています。
- 1554年:武田・今川・北条の三国同盟を結ぶ。
- 1559年:45歳の時に隠居。息子の氏政に家督を譲る。
- 1561年:上杉謙信に10万の兵で小田原城を包囲されるも籠城作戦で耐え抜き、謙信を撤退させる。
- 1571年:57歳で病のため死去。小田原城で亡くなったとされています。
北条氏康について簡単にわかりやすくまとめてみました。
もし少しでも興味を持った方がいましたら是非ご自身でも調べてみてください!