織田信長とはどんな人物だったのか?簡単にわかりやすく解説!

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織田信長 人物・武将
桶狭間の戦いで今川義元に勝利するなど強敵に勝ち天下統一に突き進んでいきます。
また、南蛮文化に興味を持つなど広い視野で世の中を見る目があったり、楽市楽座のような商売を自由に行える仕組みを作るなど政治面でも高い能力を発揮しました。
天下統一まであと一歩のところまできたものの、本能寺の変によりその生涯を終える。

  • 出身地:尾張(現在の愛知県)
  • 誕生日:1534年(具体的な日にちは不明)
  • 死亡年月日:1582年6月2日(本能寺の変)享年49歳

織田信長という名前を知らない人はほとんどいないでしょう。日本の戦国時代においてもっとも有名な武将です。
しかし織田信長が実際にどんな人生を歩んできたのかは意外と把握されていないのではないでしょうか。ここではそんな信長の人生を紹介していきます。信長の生涯をみることで戦国時代の変遷も見えてくるでしょう。

信長の生まれと若い頃

織田信長は1534年尾張半国の主である織田信秀の嫡男として生まれます。
信長は織田家の世継ぎとなることが決まっていましたが、それは正室を母と持つからのようで兄にあたる人物もいます。

このころの織田軍は美濃の斎藤道三と戦っていましたが負けが続いていました。
斎藤道三と戦わないようにするため、和睦の証として信秀は信長と斎藤道三の娘(帰蝶)を結婚させるに至ります。

この頃の信長は「大うつけ」と呼ばれており、片腕出しの着物スタイルで腰にはヒョウタンを下げ、髪は後ろに束ねてほうきのようなボーボーの髪型であり、当時としては非常識なスタイルをしていたことからこのように呼ばれる要因の一つとなっています。

こうしたこともあり、家臣たちの間では信長を不安視する声も多く、織田家をまとめるのに時間がかかります。

父・信秀の急死により18歳で織田家を継いだ信長は苦しい状況でした。
「尾張のうつけ」と言われ評判が悪かったことも一因ですが、尾張国内に多くの敵を抱え、三河方面には今川家という大勢力があったからです。こうした危機的な状況のなかで信長は領内をまとめるため、弟・信行(信勝)を誅殺するなど、ときには過激な方法を用いながら尾張を統一します。

桶狭間の戦いに勝利

信長はその後、息つく間もなく大きな戦いに身を投じます。

有名な桶狭間の戦いです。1560年、信長が27歳の時です。

2万5千とも4万ともいえる今川の軍勢が尾張に攻めてきます。

この時、家臣たちは大いに慌てうろたえますが、信長だけは落ち着いていたと言われています。

今川軍が楽勝ムードで油断する中、信長は少数の兵だけを引き連れ城を出て今川陣営に向かいます。突然の豪雨もあり、天気も味方につけた信長軍は豪雨にまぎれつつ今川義元のいる場所まで近づき、突然襲い掛かります。この奇襲に慌てた今川軍は逃げまどい、義元は殺されることとなります。

この時信長軍はわずか2000だったと言われており、この桶狭間の戦いの勝利により全国に信長の名が轟いたと言われています。

この戦いの後、信長は独立した三河の徳川家康と同盟を結びます。永禄4(1561)年のことです。

信長の美濃攻略と「岐阜」の命名

その後、信長は美濃攻略に着手します。
しかしここでも苦戦を強いられます。齋藤家の当主であった斎藤義龍は戦上手でなかなか勝利することができなかったのです。

信長が美濃攻略の好機を得るのは義龍が死去し、息子の竜興が後を継いだ永禄10(1567)年になってからのことでした。齋藤家を支えていた美濃三人衆を調略した信長は侵攻を開始、竜興は国外逃亡し信長は美濃を手中に収めます。

このときに信長は本拠地を尾張の清州城から美濃の岐阜城へと移しています。これは上洛を見据えた行動であったと言われています。

また岐阜城という名前は信長が命名したものです。
それまで岐阜城は稲葉山城と呼ばれていました。また地名も井ノ口と呼ばれていたそうでしたが、信長はこれを岐阜で統一しています。

信長の人生の約3分の2は尾張統一と美濃攻略に費やされていたのです。

天下布武と信長上洛、そして信長包囲網の形成

美濃攻略を達成した信長はすぐさま上洛へと乗り出します。
このとき室町幕府は三好三人衆が牛耳っており、14代将軍・義栄が将軍に就いていました。信長は足利義昭を将軍とするためにこれと対立。反抗してきた六角家や三好家に勝利して上洛を果たします。
このとき信長は「天下布武」の朱印を使用し始めています。これは近畿地方を武力によって安定させるという信長の政権構想を現したものでした。
一般に言われるような日本全国を統一しようとするものとは違ったのですね。

上洛を達成したことを義昭は喜び、信長を義理の父と仰ぐほどに頼りにしていました。しかしその後、信長を取り巻く環境は悪化していきます。

浅井長政の裏切り

信長は上洛後、周辺大名たちに京の町への参集を呼びかけますが、越前の朝倉義景がこれを無視します。

これを信長は敵対行為とみなし、若狭武田家で起きた反乱を鎮圧するという名目のもと、朝倉家の領地へ侵攻を開始します。

当初、戦は有利に進み織田軍には勝ち戦のムードが漂っていました。
しかし同盟相手であったはずの近江の浅井家が裏切ると状況は一変します。前後から挟み撃ちを受けることになった信長は撤退を余儀なくされ、命からがら京都まで逃げ延びました。

このときの有名なエピソードとして信長の妹で浅井家当主・長政の正室であったお市の方が袋の両端をひもで縛った小豆を送ったというものがあります。これは信長が袋のネズミになっているというなぞかけでこのメッセージに気づいた信長はすぐに撤退したという話があります。兄妹の絆や信長、お市の方の機転の早さが垣間見えるエピソードですね。

退却後の信長は周辺国のほとんどを敵に回すことになります。具体的には浅井、朝倉、三好、武田、本願寺などの宗教勢力です。このような織田家と領地を接する周辺勢力と敵対していた状態を「信長包囲網」といいます。

信長は自身を裏切った浅井家を討伐すべく、徳川軍と連合を組んで姉川に陣取ります。長政もこれに朝倉家の軍勢と連合を組んで対峙します。姉川の戦いです。信長はこの戦いに勝利し、浅井朝倉軍は力を弱めましたが、信長の状況は必ずしも好転したとは言い切れませんでした。

比叡山焼き討ちと本願寺との10年におよぶ戦い

織田家は当初この包囲網に苦しみました。特に強敵だったのは比叡山などの宗教勢力です。彼らは宗教勢力である一方、お布施や金貸しによって大きな勢力を有していたのです。信長はここに目を付けます。包囲網を崩すために比叡山延暦寺に焼き討ちを仕掛けました。これは有名な事件ですね。

信長の生涯の戦いで一向一揆との戦いはもっともリソースを割いた戦いと言えます。比叡山焼き討ちの前には長嶋城の一向一揆に実弟・信興を討たれており、信長はこの報復のためともいえる大虐殺を繰り広げています。

また一向一揆の総本山である石山本願寺との対決は本願寺法主の顕如が1580年に退去するまでの約10年間続きました。

加えてこの包囲網のなかで武田信玄や上杉謙信といった名将との対決も実現しています。

武田信玄は1573年に徳川家康と対決。三方ヶ原の戦いです。この戦いでは信長は直接対決していませんが、信玄の大勝に終わっています。この直後に信玄が急死し、九死に一生を得ることになります。

また、その後、1575年に信玄の四男である武田勝頼と長篠・設楽原の戦いが起こります。
信玄は亡くなっていましたが、それでも当時の武田軍は戦国最強とも評され、特に武田騎馬隊の強さは有名でした。
ただ、大量の鉄砲を活用した戦術によりこれを撃破し、信長はこの戦いに勝利します。
多くの重臣を失った武田軍は弱体化を招くこととなりました。

上杉謙信とは能登国の主導権を巡って争うことになります。ここは畠山家の領地でしたが、その跡継ぎ争いで両家は対立することとなったのです。俗にいう手取川の戦いです。

この戦いで信長は大敗を喫し、織田軍は撤退しています。
しかしその上杉謙信もその後すぐに病気で亡くなってしまいます。

信長にとって大きな敵は武田や上杉のほかに毛利家などもあげられますが、最大の敵は本願寺でした。小谷城の戦いや長篠の戦いといった大一番で敵を倒し続けていた信長ですが、もっとも時間をかけたのが本願寺です。本願寺は最大の宗教勢力として強い勢力を誇っていました。信長は天王寺砦の戦いなど激戦を経て、ようやく顕如を退去させることに成功します。

安土城と商売

信長は戦いだけに力を入れていたわけではありません。
長篠の戦の翌年には琵琶湖のほとりに豪華なお城(安土城)を築きます。

安土城の城下町では、だれでも自由に商売をすることができましたので、多くの商人が集まるとともに、キリスト教を保護し、布教を許可しており、これまでの慣習や伝統にこだわらないそのやり方は人々に魅力的に映ったものと思われます。
このまま信長が生き続けていたら新しい日本が見れたのかもしれません。

家臣の裏切りと本能寺の変

信長は生涯にわたって多くの裏切りにあっていました。弟・信行(信勝)の裏切りに始まり、信行についていた柴田勝家や浅井長政、松永久秀に至っては3度も裏切りを受けています。荒木村重に裏切られたときは怒りから彼の一族を処刑していることがある一方で信長は裏切ったものを許す傾向にもあります。

この結実が本能寺の変です。

このときの信長は武田勝頼を滅ぼし、毛利家との戦を有利に進め、四国進出を狙うという段階でした。そんななかで近畿地方は空白となっており、唯一大軍を率いていたのが明智光秀だったのです。

信長は光秀の襲撃にあい、自刃することになります。多くの苦難を乗り越え、天下をつかむ寸前になってあっけなく討たれてしまうのです。
※本能寺の変についての詳細は以下をご覧ください。
【本能寺の変】明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?黒幕がいる?裏切りの謎に迫る

諸説ありますが、「是非に及ばず」という言葉を残して、自ら命を絶ったと記録されています。

信長公記:信長の最後の言葉について

太田牛一が信長が死ぬ前の言葉を記録した物を残しています。
太田牛一というのは、織田家で政治業務を担当する傍らで「信長公記」を書いたと言われています。

本能寺の変の際、近江の役人だった太田牛一は、信長が死ぬ前の言葉をその時生き残った女性に聞いて「信長公記」に残したと言われています。

織田信長年表

織田信長について簡単に解説させていただきましたが、時系列でわかりやすく年表形式で簡単にまとめておきます。
これを見れば流れがわかるかと思います。

織田信長簡単年表
1534年織田信長誕生。幼名は吉法師。
1546年信長元服。
1547年信長初陣。今川領の三河の吉良大浜城攻略のため出陣。
信長公記には「紅筋が入った頭巾と馬乗りの羽織、馬鎧という出で立ち」と記されており、信長の傳役(もりやく)である平手正秀がそろえたと言われています。
1548年斎藤道三の娘の濃姫(帰蝶)と婚姻。
1549年尾張に人質として拘留されていた後の徳川家康である竹千代と織田信広(信長の庶兄)とを人質交換する。
1552年信長の父である信秀が病で亡くなり、信長が家督を継ぐ。
1553年平手政秀が自害する。諸説あるが、信長はこれで改心したと言われている。
1558年何度も信長に背く弟信行(信勝)を清州城にて誘殺。
1559年ようやく尾張を平定する。
1560年桶狭間の戦いで今川義元に勝利。
1562年德川家康(この時はまだ松平元康)と同盟を結ぶ。
1567年稲葉山城の戦いに勝利し美濃攻略。
稲葉山城を岐阜城と改め、この頃から天下布武の朱印を使用し始める。
1568年足利義昭を連れて上洛する。
1570年朝倉討伐に出かけるが浅井長政の裏切りにより撤退戦となる。
1571年比叡山焼き討ち。
1572年本願寺を中心として、朝倉・浅井・松永・三好家などによる信長包囲網が形成される。
また、そこに武田信玄も加わり、信長包囲網は強固なものとなる。
同年12月には、織田・德川連合軍が三方ヶ原で武田信玄に大敗する。しかし信玄は翌年死去(病死)。武田軍は甲斐へと引き返すことに。
1573年信長により改元される。元亀から天正へと変わる。
同年8月~9月に浅井長政討伐。浅井長政に嫁いでいた信長の妹のお市の方とその娘たち(浅井3姉妹)は救出される。
1575年武田勝頼との長篠の戦に勝利する。大量の鉄砲を駆使した戦術を展開したと言われている。これにより武田家は大きく弱体化していく。
同年11月には息子の信忠に家督をゆずる。
1576年安土城完成。岐阜から安土へと居城を移す。
1580年本願寺との合戦に勝利。
1582年明智光秀の裏切りにより本能寺にて亡くなる。俗にいう本能寺の変である。
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